





200年以上続いている蔵と聞いたのですが、まず、そんなに続くってすごいですね。


河野社長
はい、私は9代目なのですが、創業は1807年で、最初は酒造りの蔵でした。でも太平洋戦争のときに国の指導で、清酒をつくる仕事はこの地域にある8軒の酒屋で一緒にやりなさいと。お米は兵隊さんの兵糧になるので、酒なんかつくっている場合じゃないと。
えらいのが、当時のおかみさんたちで。合併しても当代の人たちだと喧嘩しちゃうから、一斉にその時の当主、自分の旦那さんたちに、「あんたたち、引退しなさい」と。次世代の息子たちだったら喧嘩しないでうまくやれるから、っていう知恵を働かせて。それで今でも酔仙酒造として続いています。わたしたちはその流れで、酒造りから、お醤油、お味噌というふうにだんだんと変わりながら、続いてきた遍歴がある会社です。
どうしてお醤油を選んだのでしょうか?


河野社長
三陸沿岸が、やっぱり水産業が盛んだったので。魚を味つけしたり、保存性を高めるための原料としてお醤油を水産加工会社さんにお納めして、生業を立ててきたんです。めずらしいんですけど、この小さな町のなかに4軒も味噌・醤油の蔵がありまして。
さっき、近くの川を通った時に、昔は鮭がたくさん登ってきたと聞きました。


河野社長
はい。本当に何十軒といくらの醤油漬けを製造されるお客様がいらっしゃって。1軒1軒レシピが違うんですよね。で、みなさんライバルだから、「あそこの売れてるいくらのレシピ教えろ」って言われたんですけど、絶対的な守秘義務があるので、「それは教えられない!」って断って(笑)
あとは秋刀魚も、大船渡が本州の水揚げ漁港1位で、気仙沼も4位くらいで、その2つに囲まれているのがここ陸前高田なので。どっちにもいい顔をしないといけないんです(笑)
そういう中で、さきほどのおかみさんたちみたいな知恵が生まれてきたんですね(笑)


河野社長
そうなんです。とくに気仙沼の女性たちは、すごく地域のことを愛していて、「気仙沼つばき会」を結成しています。日本全国から船主さんが来る気仙沼で、漁師さんを大切にする活動を震災前からされていて。震災後には「みなさん安心してもどってきてください!」っていうPRのために、漁師カレンダーを企画したんです。いわゆる「先生」と呼ばれるような一流の写真家にお願いして。まわりがざわつく中で、「あんたたちわかってるわよね、これ、売り切れなかったらわかってるわよね?いくわよ!」みたいな(笑)
覚悟がすごい!


河野社長
自分もすごいお世話になっていたので、「100枚買いなさい!」って言われるんじゃないかって覚悟してたんですけど(笑)。1週間経っても2週間経ってもいわれなくて。逆にこちらから「どうしたんですか?」っていったら「ごめんなさい売り切れちゃった…」って。10日で売り切ったんですよね。
かっこいい!(笑)


河野社長
そういう人たちに、我々はかわいがっていただいて、いろんな場所でうちのお醤油を使っていただいて。だから陸前高田だけじゃなくて沿岸の街がないと商売が成り立ってない場所ですね。
まさに、地域や人とのつながりで生きてるんですね…こちらの風土についても教えてもらえますか。


河野社長
陸前高田って、元々大きな港があったわけではないですけど、見渡す限り広い土地があるので、穀物とかけっこう自分たちで作っていて。微生物の力を借りて、保存できるものを作るっていう技術は、太古の昔から始まっていて。山ぶどうを潰してお酒をつくったり、海の魚を塩漬けにして発酵させたりして、貿易してたんですよ。
実は陸前高田、すごく貝塚が多くて、その中に北海道でしかとれない鉱石とか、秋田にしかない鉱石が混じっているんです。発酵食品を通じてはるか昔から交流をしていたんですよね。
発酵の力、すごい!


河野社長
おもしろいのが、大和朝廷とのやりとりが見つかっていて。蝦夷を調べにきた部隊200人くらいが京都まで戻れないから、一冬をそちらの集落で匿ってもらえないか、という文章なんですよ。つまり、200人の外からのお客さんを一冬生活を賄うくらいの都市機能があった。発酵食品というのは、他から来た人をそういう風に生きながらえさせることもできるんです。
醸造業は都市の機能っておもしろいですね。


河野社長
そもそもが、日本の醸造業で200年企業って今でも一千数百社あって、お味噌やお醤油やお酒の産業がすごく多いんですよね。そしてこの産業が長く続いている理由として、原料の大豆にしても小麦にしても米にしても、まけば全部芽が出て、次の年には収穫ができる“種”なんですよね。
そんな風に蔵の中に種の状態として2年分は持っている。あとは枯れない井戸を必ず持っていたので。水と、塩と、穀物の種。つまり醸造業は、地域の中の、生命維持機能を担っていた。そうやって、社会的に必要とされたから大事にされて、長らく商売を続けることができたんです。
だからやっぱり、これからもこの仕事を長く続けるためには、社会的な必要性とか役割が必要だと思っています。その機能が今どんどんなくなっているので、醸造業が衰退してきている。そのため、われわれには、地域や社会を持続可能にするための機能っていうのが絶対的に必要だと思います。
手段はそのままじゃないかもしれないけど、次の時代に同じような役割を果たしたいってことでしょうか?。


河野社長
そうですね。だからこそ、経営理念が大事なんです。


このままじゃだめかも、という危機感はいつからあったのでしょうか?


河野社長
ずっと以前から、このままだと日本の食文化は滅びるなとか、醸造業はこのままなくなってしまうんだなっていう危機感は、実はものすごく強くて。環境問題や資源と食糧の問題というのも、父や母、祖父からの影響もすごく受けて育っていて。
私の祖父は陸前高田を埋め立てて火力コンビナートにする、という議論に漁民側に立って反対した人なんですね。町が二分する中で「八木澤商店のものは買うべからず」という不買運動が起きるくらい。それでも信念を貫いている姿を見てきて。
どうしてめげずに続けられたんでしょう。


河野社長
その当時の、漁港の組合長と祖父が話している肉声のテープを聞いたことがあるんです。ちょうど列島改造計画のときで、日本全国をコンクリートで埋めて、近代化を図るんだというのが絶対的な正義だった年に、「日本中がすべてコンクリートで覆われたとしても、この広田湾だけはそうさせない。いまは笑われるかもしれないけど、100年後に認められる世の中になるだろう」っていう議論をしているんですよね、自分のおじいさんたちが。これはしびれましたね。この先見性ったらすごいなと。
自分の商売がそれでうまくいかなくなったとしても、100年先を見るんだ、という見通す力というか。プライドとしても、何と闘うのかっていうのが明確な旗印になっているから、理念のある生き方だなあと。自分も、どうせ短い数十年しか生きないのであれば、そういう生き方の旗をふって、一緒にやろうっていう人と酒を飲んで「やったったな!」っていう生き方をした方が楽しいという。
生き方の旗をふる!いいですね。100年先の未来を考えて今の商売をしていく。おじいさまの意思をちゃんと受け継いでいるんですね。


河野社長
受け継ぎたいなと思って。全然ですけど。
河野会長
これだけ理屈っぽいこという息子だから、俺は隠居して、なんにも言わない方がいいんだって思ってきた。だからいちいち言葉であぁだこうだって言わなかったけど、知らないうちに私の父と私の背中を見てきたんですね。
本当に想いを色濃く受け継がれていて…そういった先見性ってどうやったら持てるんですか?


河野社長
どうなんでしょう。やっぱり、外に出ることじゃないかなと思うんですけど。わたしは高校を卒業して、アメリカに留学させてもらったんですけど、その中で日本のことを聞かれるんですが答えられないんですよ。
岩手出身っていうと「お前は新渡戸を知っているのか?」って言われるんです。「あの…お札の人ですか…?」って、その程度ですよ。そしたら「お前は新渡戸の武士道を知らないのか」とあきれられて。「我々が尊敬している日本人っていうのは、残念ながら今の日本人じゃないんだな」ってはっきり言われました。「我々が憧れるのは、新渡戸とかの時代に、先進国の工業化に遅れながらも、自治権と自立を勝ち取るために闘った日本人の精神だ。アジアの人も中東の人もみんな見ていたんだ」と。それを言われたらですね、ぐうの音も出ない。「そ、そうなんですか」と。
すごい経験をされましたね。


河野社長
そうなんです。いちばん知らなきゃいけない我々が「ハリウッド映画の中のかっこいいバイクで、アメリカの荒野を走るのがかっこいい!」って言っているわけですからね。外に出てはじめて、自分たちはどういう成り立ちで今ここにいるのか、客観的に知ることができて、なるほどと。
未来ばかり見ててもダメで、過去を知り、広い視野を持った上で、初めて先見性というものが身につくんですね。


河野社長
先見性というよりも、原理原則をはずさない、という感じでしょうか。何がガワで、何がコアなのか。コアは変わらないものですが、なぜ変わらないのかをちゃんと見つめ直す必要があるという。
そうすると、まわりとは意見が違っても、自分の大事なことをちゃんと主張できるということですね。そっか、先見性という言葉は後からついてくるのかも…


河野会長
息子がアメリカ行くって言った時は、ほら吹きだと思ったよ。「アメリカに農場をつくって、その原料を日本に持ってくる」とか言うから、何言ってんだこいつ?って。でも、間違いないのは、危機感を持っていたこと。このままでいくとうちの醸造する酒、味噌、醤油だけじゃなくて、農業も全部がダメになるって言うから。こっちもどうせやるなら江戸時代のつくりをそのままやってみようってやり始めたらいろんな取材が来て。で、息子がアメリカから帰ってきたときに、うちの醤油は日本でも食通という人たちには結構有名になっていた。
河野社長
父は、お醤油屋さんというより地域おこしの立役者っていうところがあって。
河野会長
根っこには、このまんま地元のものを買わなかったら、地元の農家みんな辞めていくなぁっていう危機感を持っている。だからねぇ、農業もどうせなら農薬使わないやつやろうって。農薬や化学肥料をつかうから土がどんどん傷んでいく。小さいながらもね、水に沈むトマトをつくろうとか、ポンと割ってもくっつくきゅうりを作ろうとか。それがいつの間にか、こいつにつながった。
河野社長
そうですね、コメつくって自分たちで自給自足するっていうのをやってまして。新卒採用して入ってきた子達は、毎年田植えから始まって、草取りをして。八木澤商店は震災前は、自分たちで育てたものを自分たちがつくった調味料で味をつけて食べるという社員食堂があって。で、新入社員は、そこでそのまかないを作るのをやったりしながら、ものをつくるっていうことを覚えていくっていう。
今は自分の手でつくる機会はないんですもんね…


河野社長
経営理念で「感謝しましょう」って書いてあるだけでは感謝できないですけど、自分が実践すると、いつのまにか田んぼへの感謝が出てきたり、作る人を大切に思う気持ちが出てきたり。そうすると相手を思いやる気持ちになって、社内で調和がうまれるっていう。まぁ微生物を育てるみたいなもんですけど。だんだんだんだんと。
経営理念と、実践が、両方あるのがすばらしいなと思います。お醤油を無添加でつくり始めたのは何年前くらいだったんですか。


河野会長
昭和45年に結婚したんだけど、その後、生まれた子どもたちがぜんそくだった。そしたら家内が、有吉佐和子さんの『複合汚染』を読んで。子どもたちの健康を考えたら今の日本の食はおかしい!って言い始めて。それまでは、水産業が盛んなこの場所で、大量にどうやって醤油をつくるかを考えていた。そうそう、大量につくるために、どこよりも先に、天野式通風製麹機を入れたわけ。
天野社長
昭和33年に、私の祖父が特許をとったんですね。酵素のために取得した特許なんですが、大阪の機械メーカーが醤油や味噌に使えるから、ライセンス契約させてくれと申し出てくれて。そのことは、河野会長に初めて会いにきた時に、実は東北で第一号だったと教えてもらって知って。先代が入れてくれたそうです。
河野会長
つながりだねえ。その後、ど素人のわたしの家内が、どうせつくるなら添加物を入れないものに挑戦しましょう、と。
ご家族の声をちゃんと取り入れたんですねえ。


河野会長
うん。「どっちみち小さな会社なんだから、挑戦しましょうよ」と。農薬を使わないで有機肥料を入れると言うことは、土を発酵させるっていうことなの。味噌醤油と変わらないじゃないかって。それで、平成元年に始めました。
天野社長
そうですね、微生物ですもんね、土の中は。
河野会長
だから、本当に化学肥料だらけの畑って10年でダメになる。
でも、土の力を育てると、どんどん育っていく。微生物たちが、頑張って。


河野会長
平成5年に日本が冷害になって米がとれないときに、うちの田んぼは醤油の搾りかすをまいて。だって窒素肥料って、大豆と小麦を絞ったやつだから。そしたらうちの田んぼが一番とった。だから隣のじいちゃんに「お前の田んぼ、何米だ?」ってきかれたから「ほったらかし米だ」って。「そんな米あったかな?」って、俺のジョークが通じないんだよ!(笑)
刈り取れなかったんですね(笑)


河野会長
でも、そんなふうに、本当にわずかながらだけど、挑戦してきた。でも震災後、俺はやめようと思った。何百年続いた醸造業が全部流されて、何もかも終わりだと。子どもたちが来ると「カビだらけの蔵」って言う。むしろそれが自慢で。木樽が自慢で。そんなものが全部なくなっちゃったわけだから。
それでも河野社長は「やる」って。「お前何やるんだ」って聞いたら「なんかできんだろ」って。でもなんにもやることがないから、来た物資を届かない人に配り始めて。それが震災後の社業の最初。そのうちに、もろみが見つかって。そのうちに、表にある木の看板が、8キロ離れた浜に流れてきて。
天野社長
あの瓦礫の中から見つけるって、奇跡ですね。最初にお会いして、仮の会社のところに伺った時、「看板を見てくれ」って言われて。本当に驚きました。
河野会長
そういうものが見つかった時、俺はやる気になった。
この世界のあらゆる場面で活動する酵素、その新たな可能性を求めて。
現在、さまざまな分野で活躍中の人々のもとを「酵素くん」と一緒に訪ね、お話をうかがうコーナーです。
