脱炭素社会に向けて、キノコの力を最大化する<後編>
五十嵐圭日子さん(微生物学者)
 
文/神吉 弘邦 写真/MOTOKO
text_Hirokuni Kanki
photos_ MOTOKO
私が「酵素推し」である理由

先生がお手元に用意いただいたのは、何の模型ですか?

五十嵐先生

これは、およそ1,600万倍にした「セルラーゼ」の模型です。下の部分がセルロース。よく見るとグルコース(糖)が1個1個つながって、ざーっと長くなっています。

セルロースの上にあるセルラーゼという酵素が、それを動きながら削っていきます。私たちは、よく「カンナをかけるように」と表現しますが、セルロースをビリビリと裂いていくんですよ。

7回目の「酵素トーク」にして、ついに酵素くんが実写化! 図解などと違って一目瞭然ですね。

五十嵐先生

セルラーゼの中はどうなっているかというと、グルコースがつながっているところから、セルロースを1本ずつ取り出しています。そしてプチップチッとグルコースを1個ずつちぎって外に出していく、そういう反応が起きています。

酵素の大きさは、だいたい10ナノメートルぐらいしかないものです。私たちは「ナノマシン」と呼びますが、セルロースから0.5ナノメートルほどのグルコースを引っ張り出す。何億というような酵素分子が反応液中で動き回って、どんどんバイオマスを糖に変換していくんですね。

五十嵐先生

こんなに精密なナノマシンを人間がつくれる時代は来るのか。頑張って化学で酵素に似たようなものをつくることはできるかもしれません。実際、2021年には「不斉有機触媒の開発」の研究がノーベル化学賞を受賞しています。
ただ、私から言わせると、それはすでに生物が使っているもの。「人工的につくれたから素晴らしいと評価されているけれど、生物でそのままやったほうがいいのでは」と思っています。酵素を一からつくれと言われたら、一瞬にして白旗を揚げます。でも、生物が使っているとわかっている酵素なら、人間も利用できる。私が「酵素推し」なのは、まさにそこです。

微生物は何種類いるのか。一説によると1兆種はいるんじゃないかということです。それだけいろんなものをプロトタイプ(試作品)でつくっているということだから、本当に自然ってすごい。人間の工業社会では、意味のあるモノだけつくろうとするけれど、自然界はそんなことお構いなしにつくっちゃう。

五十嵐先生

意味があろうが、なかろうが、どんどんつくってしまいますからね。模型でお見せしたセルラーゼという酵素は、2つの部分からできています。まず、セルロースを見つけ出す「センサー」のような役割をする部分。これでセルロースにパチっと張りついて、見つけるんですね。

その後ろが、セルロースを「中に取り込んで切っていく」部分。つまり、探しながら捕まえて、絶対に離さないで引っ張ってくる、実によくできた仕組みです。

五十嵐先生

しかも、これは別に視覚があるわけでも、嗅覚があるわけでも、意思があるわけでもない。本当に純粋な化学的な反応だけで動いているマシンなんですね。

自然界の仕組みを、そのまま社会に取り込もう

酵素のようなナノマシンを人間がつくるのは難しい。いちばんは、どんな理由からですか?

五十嵐先生

結局、どうやって化学反応というものが起きているか、まだ全然わかっていないのです。さっき「中に取り込んで切る」と説明しましたが、人間が硫酸を使って表面を溶かさなくてはできないようなことを、酵素の場合は「切りたい1カ所だけで、瞬間的にピチッと化学反応を起こせる」という仕組みを持っています。
だから、そのメカニズムさえわかれば設計できると思います。でも、すでに自然界にはその仕組みがあるのに、どうして、わざわざそれを新しくデザインし直さなきゃいけないのか。そこが私は疑問なんです。

先生の研究は、新しく設計するほうには向かわなかったのですね。

五十嵐先生

はい。自然がどれだけすごいかを見せるしかないと思って。「自然界がこれだけうまく回しているのだから、人間も一緒に回せるようになったほうが早いのでは?」という感覚ですね。

どんな研究成果を出せば、それを産業に展開していけるとお考えでしょう。

五十嵐先生

さっき酵素くんが言ったように、今の工業社会で人間が使っている化学反応に比べると、酵素の速度は遅いです。だけど、速度を上げる方法はあるんじゃないか。まだ人間は酵素をうまく使いこなせていないだけじゃないかと思っています。

私がやっているセルラーゼの場合、どんなふうにセルロースを切っているのかがわからないのに、速度を上げるも何もない。基礎研究として「どう切っているか」という地点から研究しています。

僕たち酵素は、もともとはアミノ酸がつながっただけのもの。それが、ものすごく長い年月をかけて、なぜ今の形になったか。なんでそんな働きをしているのか。世界中の研究者のみなさんが、その謎を解き明かそうとしてくれています。

五十嵐先生

じゃあ、もう少し詳しく話すと「五十嵐といえばアレ」と言われている研究が、セルロースの表面でセルラーゼが起こす「渋滞」の解消です。

それって、道路で起きる渋滞みたいなことですか?

五十嵐先生

一緒ですね。ひとたび渋滞が起きると、酵素同士がお互いに詰まって、前に動かなくなる。すると分解速度が落ちてしまいます。分解を速く進めるには、この渋滞を解消してあげればいい。

セルロースにプチプチといろんなところで切れ目を入れてあげて、多くの場所から酵素を送り込めるようにするアイデアがあります。じゃあ、その切れ目をどうやって入れるのか。そういった具合に一歩一歩、研究を進めています。

まだ人間は、酵素をうまく使いこなせていないだけ

ところで研究室に飾ってある、あちらの額は?

五十嵐先生

これは、私たちの研究が「ギネス世界記録®」に認定されたことの証です。酵素の結晶構造を世界最高解像度で解いたという内容でした。

五十嵐先生

以前に、私たちは「宇宙でタンパク質の結晶をつくる」というプロジェクトをやっていました。そのとき、本当にきれいな結晶ができました。

それをX線に当てたら、信じられないぐらい高い解像度が出た。そのとき一緒にやっていた学生さんが「これで科学的に何も進歩するわけでもないから、ギネス登録くらいしかやることないですね」とポロッと言ったんです。「それじゃ、やってみようか」と。

健康診断で、僕のレントゲン写真がクッキリ見えるような感じですか?

五十嵐先生

やはり解像度が上がると、見えてくるものが違います。タンパク質の硬さ、柔らかさまで見えるんですよ。普通は計算して「ここの部分は硬くなっているだろう」といった判断をしますが、実際にガチガチのところが、炭素とか酸素とかの原子が本当にきれいに見えます。

逆に、柔らかいところはちょっとふわっとしていて動きがあるんですね。ポコ、ポコ、ポコって丸い原子がいっぱい見えて。あれを見たときはやっぱり感動しました。

複数の大学と産学協同で取り組んだ、宇宙における新素材の活用プロジェクトを解説したパネル。
(ディレクション:クドウミツコ イラスト:ウチダヒロコ)

同じ体重計でも、体重しかわからないのと、体脂肪なんかもバチっとわかっちゃうくらいの、そういった差ですか?

五十嵐先生

そうです。データがすべて見える感じですね。それで私たちは、まったく新しい酵素反応のメカニズムを考えることができました。やはりあれは解像度が高かったからできたと思うので、サイエンス的な進歩につながったんじゃないかと考えています。

僕たち酵素の体は、普通の化学触媒と比べるとたくさんの分子からできています。そんな高分子(ポリマー)の状態では、いろんな要素が大きく影響してくるんじゃないかと思うんです。

五十嵐先生

専門的な話ですが、酵素と他のアミノ酸では、他の原子との水素結合のパターンが全然違います。その水素結合をうまく使って、酵素自体が反応させたいところに誘導するような仕組みがあるんです。水素結合のつながりのネットワークを使って加水分解できるようになっている。高解像度にすることで、それが見えてきます。

僕たち酵素が、なぜこんなに元気なのか。どうしてこういうことができるのか。五十嵐先生たちが、どんどん謎を明らかにしてくれるんですね。

五十嵐先生

酵素くん自身が、なんで自分がこんなことができるのかわかっていないのなら、私たちが外からいろんな方法で見て「あなたはこんなところがすごいんだよ」と見つけてあげられると思いますよ。

僕のパーソナルトレーナーになってもらえそう!

五十嵐先生

私たち人間が自然と手を携えてどんどん追求していけば、酵素を使って地球の自然環境を損なうことのない社会がつくれるようになると思っています。私が少しも飽きることなく酵素の研究をずっとやれているのは、そんな理由からです。

今の社会を全部スクラップするんじゃなくて、徐々に変えていくということですね。

五十嵐先生

そうです。今でもだいぶ酵素で置き換わっている部分が出てきました。これからは、さらにどんどん役割が増すだろうと考えています。

■天野エンザイムの感想
自然界では、工業社会のように設計が行われておらず、多様性がとにかく育まれています。その中から、必要なものが自ずと出てくるというやり方をしている。そこが、自然の英知の一番すごいところです。何か目的を絞ってものをつくるのではなく、あらゆる可能性をかなえるような「大きな多様性」をつくるシステムが備わっているのは、実にすごいことだなと思うのです。私たち人間がそこから学べることは多そうです。

この世界のあらゆる場面で活動する酵素、その新たな可能性を求めて。
現在、さまざまな分野で活躍中の人々のもとを「酵素くん」と一緒に訪ね、お話をうかがうコーナーです。